<前者>減点主義で理想と現状のギャップを埋めようとしている (批判)
→ 相手のあり方を強要している
<後者>加点主義で理想と現状のギャップを埋めようとしている (相談)
→ 相手のあり方に選択の自由を与えている
減点主義と加点主義の違いは相手の自由度にあるわけです。当然加点主義の方が意欲をかき立てることができるわけです。
もうひとつ注目すべきは、相手を批判した時は、どうしても自分を正当化する必要がある、ということです。自己正当化は本末転倒する傾向があって、自己正当化するためには、相手が悪くなくてはいけない、というふうにいつの間にかすり変わってしまうのです。こうなると、この若者を批判した日には、この若者が怠け者でなくては、自分の立場がありません。その結果、相手を良くするためというよりは自分の立場を守るために、自分の呈した苦言に固執する結果になるわけです。
結局、相手の批判は、相手を変えるには拙劣な方法で、大抵うまくいかない、うまくいったように見えて弊害が大きい、ということが言えます。逆に言えば、相手を批判せずに相手と相談すれば、相手が変わる可能性が大きい、ということです。その分岐点が加点主義か減点主義か、ということなのです。
こんなふうに神経を使っても、結局辞めてもらわなければならない人は辞めさせなくてはなりません。しかし、辞めさせる必要のない人は間違いなく残すことができるわけです。
耐え忍ぶ側がやりかたを変えた事例
私は同族企業に在籍し、父親は社長という上司でもあります。私は以前は、
「そんな言い方はないでしょう!」
とよく父に食ってかかったものです。つまり「上司はかくあるべし」という期待感が強かったわけです。こんな期待感があるうちは人間関係、絶対うまくいきません。そういうわけで一時は父との関係が相当に険悪でした。口論に疲れ果てた結果、面従腹背の態度を取っていた時期もありました。しかし、不満は必ず顔に出ます。結果、相手にすぐにわかってしまいます。
あるとき「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる」という言葉に出会ったのです。「他人は変えられない」という原則を父に当てはめることにしました。つまり、期待感を捨て、加点主義をとるようにしたわけです。
70を近い老人に文句を言っても、変わるわけがないですし、「あなたの性格、ここを直したほうがいいよ」と忠告されたところで、おいそれと直せるわけがない。だったら、こちらが合わせるしかありません。そのほうが問題がずっと早く解決するし、相手に合わせていく分、人間としての幅が広がるというものです。その結果、
「お気持ちはわかりますが、それはこうしたほうがいいですよ」
といった承認を織り交ぜた説得ができるようになりました。つまり、昔は意見が違ったら、気に障るようなことを言われたら、憤然としていたわけです。しかし、今は「それで当たり前」と割り切っている結果、相手の気持ちも承認でき、冷静に意見を調整できるようになった、ということです。つまり、
加点主義 = 期待感がなくなる = 腹が立たない = 相手の気持ちが承認できる
ということです。今にして思えば、「相手が変わるべきだ」とムキになっていた昔の私は、まだまだ未熟者であったなぁ、と恥じ入らざるを得ないのです。
◆相手をゆるす加点主義
相手が批判・叱責に訴えれば、ほぼ同時に必要になるのは、「相手をゆるす」という気持ちの整理です。と言って、そんなトラウマを受けているのに、相手を肯定することは不可能です。できることはただひとつ、相手に対して「期待感を捨てる」ということです。つまり、
「相手は○○でなければならない」とか
「相手は○○すべきである」
といった考え方を捨て去り、
「あれはああした人なんだ。他人のありようは自分ではどうしようもないし、しかたないな」
と考えることです。この気持ちの整理も減点主義をとるかぎり不可能に近いでしょう。もっとやさしく言ってほしい、目上なら目上らしく振る舞ってほしい、上司ならいざという時には責任を取って欲しい、と思っている限り、相手に対する批判は止まりません。加点主義を取ってはじめて、包容力のある気持ちの持ち方ができるわけです。
その結果、批判・叱責に訴えてきた相手との人間関係も、悪くなってもなくなってしまうことはありません。ほとぼりが冷めたらまた何事もなかったように継続できます。職場の人間関係、親族・家族などの身内との人間関係は、「この相手をゆるす」という行為が必要不可欠であるわけです。批判・叱責を受けたら、ポイントは、
相手に対して期待感を捨てる
ということなのです。しかし、世間の多くの人はこれができません。昔の私もそうでした。そして私自身、たったこれだけのことを悟るのにずいぶん長い年月がかかったわけです。
まとめると、批判・叱責を受けたときの気持ちの整理とは、他人をゆるす、ということです。基本理念は加点主義です。減点主義だとこうした気持ちの整理がまず不可能です。その結果、相手との人間関係も断絶し、自分自身も肯定できず、孤立を深めて一層自己嫌悪におちいる悪循環が待ち受けているのです。ところが加点主義だと、自他ともに被害最小で受け流せるわけです。ですから、
加点主義こそ生きていくうえの知恵
と言っていいでしょう。その人物の精神的成熟度のバロメーターであるとも言えると思います。
◆減点主義から加点主義へ
人間幼いときは、すべて自分中心でものごとを理解します。たとえば、お母さんは自分のめんどうをみてくれる人、お父さんは日曜日に遊んでくれる人、お隣のオバサンは優しいが、近所の友だちは意地悪だ・・・といった具合にです。しかし、成長するにしたがって、これらの人々はすべて自分と同じ人間なんだ、だから他人の身になって考えなければならない、ということを学習します。
ところが、他人の身になって考えなくてはならない、というのが頭ではわかっていても、これは結構難しいことです。たとえば「人見知り」という現象があります。その多くは子供や若者に見られます。しかし、大の大人でも人見知りする人はずいぶん多いものです。たとえば掃除のオバサンといった人に、全く人見知りしないという人は、よほど修養を積んだ人です。たいてい多かれ少なかれ、人見知りしています。
どうして人見知りするのか、それは「自分が付き合う人はかくあるべし」という理想像があって、掃除のオバサンの年齢・人格・境遇がその理想像からかけはなれているからです。つまり理想像からの減点主義でこのオバサンを見ていると言えるわけです。
しかし、修養を積んだ人は、「同じ人間じゃないか」という視点から、掃除のオバサンと何らかの接点を容易に見出します。つまりゼロ・ベースの加点主義で接することができるわけです。こういった人は心も温かく、オバサンになにかといたわりの言葉をかけたりするものです。
また加点主義は優しさと同時に強さも併せ持ちます。たとえば、上司があなたに仕事を依頼したが、あなたは忙しさのあまり、その上司の依頼をうっかり失念したとします。その結果、その上司があなたを口汚くなじった、としましょう。この場面で減点主義を取ると、「あの上司は許せない」となります。
しかし、加点主義なら、「あの上司はああした人なんだ、しかたなかったな」となるわけです。これは加点主義は健全な絶望感から出発しているので、上司に対して変な期待感がないからです。
どちらがダメージが軽く、尾を引かないでしょうか。それはもちろん加点主義のほうです。以上から次のことが言えるでしょう。
・減点主義は思いやりに欠けるが、加点主義は思いやりがあって温かい
・減点主義はストレスがたまりやすいが、加点主義は打たれ強くタフである
・人間理解が減点主義か加点主義かは精神的成熟度合いのバロメーターである
減点主義の人は、包容力に欠けると言っていいと思います。加点主義ではじめて、老若男女の幅広い年齢層に対して包容力ができるわけです。その意味では、加点主義の人間力はすべてのマネジメントの前提条件と言えるわけです。
◆加点主義とあげまん
「あげまん」「さげまん」という言葉があります。夫の運気を上向かせる女性があげまんで、下降させる女性をさげまんというわけです。世間ではこれを単に相性でとらえる向きが多いのですが、決して相性だけの問題ではないはずです。結局、その女性の夫に対する人間理解が加点主義か、減点主義かに尽きる、と私は考えています。なにせ、あげまんは、
「あんたはすごい」
「あんたならやれる」
という承認を一生涯吐き続けてくれるわけです。さげまんはその逆で、
「あんたなんて最低」
「あんたはなにをやらせてもダメね」
という批判を一生涯吐き続けるわけです。これは人生勝負あった、にならなければおかしいでしょう。
誰しも長所・欠点を併せ持っています。加点主義的な人間理解は正しいし、減点主義的な人間理解も正しいのです。単に長所に着目するか、欠点に着目するか、だけの違いです。加点主義的な人間理解にせよ、減点主義的な人間理解にせよ、人それぞれの立場からはその理解に至ったいろいろな理由があることでしょう。
しかし両者の違いは光と闇のようなものです。加点主義の人間理解ができる人は、相手の長所を容易に見出して承認できます。ところが減点主義の人間理解しかできない人は、何かと相手のあら捜しをして批判するわけです。
加点主義なら相手の長所の承認
減点主義なら相手の欠点の批判
これ以外のありようはないでしょう。その結果、加点主義の人間理解ができる人は承認した相手から同じように承認されて、円満な人間関係を築き上げます。減点主義の人間理解しかできない人は批判した相手から同じように批判されて、殺伐とした人間関係を築くことになるわけです。各自はそれぞれの人間理解に従って、その内部から自分自身の人間関係を築き上げているのです。
しかし、この人間理解の相違がその人が繁栄するか、不遇に終わるかの分かれ道なのです。加点主義の人は多くの人脈に恵まれて何かと援助や引き立てを受けます。その結果、その人を取り巻く一切を繁栄の道連れにするわけです。一方減点主義のは人脈に恵まれず、何かと割を食うわけですが、その人を取り巻く一切を不遇の道連れにするわけです。とすれば、承認・批判といったコミュニケーションの違いこそが、その人の幸福と不幸、成功と失敗、繁栄と不遇を分けていると言えるわけです。
◆人間相手は加点主義しかありえない
よほどのうぬぼれやでもない限り、自分自身を仔細に観察すれば、誰でも自分自身は欠点だらけ、と感じることでしょう。その欠点は実は長所の裏返しでもあって、人間は欠点と共存している生き物です。たとえば、おおらかという長所はおおざっぱという欠点でもあるわけです。その結果、欠点を言い出せば、もう少し頭がよければ、もう少し背が高ければ、もうすこし美人なら、ということから始まって、もう少しお金があったら、伴侶にめぐまれたら、子供がいたら、・・・と枚挙に暇がありません。
ですから、減点主義で自分を採点した日には、不足ばかりです。これでは自分自身を承認できるわけがありません。自分自身を承認しようと思えば、断固加点主義で行く必要があります。五体満足は減点主義でいけば当たり前ですが、加点主義でいけば、それすらもありがたく思われます。世の中には目が見えないといった人も大勢いるからです。
自己承認とは、欠点だらけの自分にあって、これだけは、というこだわりの長所を前向きに肯定することです。その際、全く他人と比較しないわけにもいきません。といって、あまり他人と比較しては、減点主義になってしまいます。結局、人間はどの人も、ささやかな長所を拠りどころに生きているわけです。そしてそのためには加点主義は必要不可欠だと言うことです。
さて、人間はこうしたもの、という前提に立てば、人間相手のコミュニケーションはどうあるべきか、というのは自明です。加点主義の立場に立って、サービス精神満点の承認に徹する、のが正しいのです。減点主義に立って相手を批判するというのは、人間相手では全くそぐわないのです。
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